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堂計画室では三徳山三佛寺の改修工事のお手伝いと研究をしています。
 
 


国宝 投入堂(蔵王殿)

2006年に開山1300年を迎える三徳山。現在三朝町では、投入堂を世界遺産登録にする動きもあります。
 
建物や、景観の最新情報についてはお問い合わせください。

 
 
● 発見
現在工事中の本堂から、古材が見つかりました。形状は八角形だそうです。
大正の修理時にはずされた材料ではないかと思われます。
現在、奈良文化財研究所の光谷先生の手で分析中だそうです。
新発見が期待されています。
請う、ご期待。

   
● 投入堂は神社だった
国宝の棟札を読み下しました。内容は以下のとおり。
 
伯州三徳山の鎮守蔵王殿は、建てて奉納されたその時節は分からないが、今だに大破したままなので、檜皮葺工事を献上する。
永和元年(1375年)乙卯七月二十五日檜皮を作り始め、八月五日に軒付、同十一日には軒切、同二十五日棟裏の工事終了。
大工は、当国に住み、昨州一宮の両国の大工を兼務する左衛門大夫(さえもんのたいふ)、平(たいら)持貞、舎弟の平正持、藤原有弘、有弘の子藤原親弘、神延氏、橘正則、源時貞 等々七人以下略
その時に垂木尻金物を作って奉納した願主は、浄土院の実円坊の明範等々。
 
(裏書)
 南座、観浄坊、妙浄坊
修理の世話人
 北座、明皇坊聖賢、賢証房昌全 (解読 松岡哲也)
 
大正修理前の姿図には、とりぶすまがあり、木製の狛犬が奉納されています。狛犬は平安末期製作です。
これらの事より、投入堂は神社だった、と考えています。[投入堂研究集団(2007.9)

 
● 赤い塗料の成分分析が終わりました
投入堂は、赤い塗料で塗られていた事が分かっていましたが、色の成分が分かりました。
鳥取県産業技術センターによるX線分析顕微鏡で行われました。
その結果、ベンガラである事が分かりました。(2007.1)
 
 
● 木口金物は、1300年代に付けられた
投入堂の化粧垂木には、花菱紋の化粧金物が付けられていました。
取付けた年代は、「国宝の棟木」の記述によれば、屋根の修理をした1375年の事です。
投入堂は、1100年には建てられたとされており、花菱の金物が取付けられた年代とは、275年以上の時間的な差があります。
投入堂の建立、ベンガラによる塗装、金物の取り付けを、同時期として考えるのは、いささか無理があると考えています。
投入堂正面の扉の金物も、大正の修理で数が追加されています。
(棟木のX線写真は、手元にあります。) (2007.1)
 
● 朱の成分分析が始まります
塗装の痕跡から塗料の成分を分析します。(2006.9)

 

 
● 化粧垂木の小口金具 花菱文の形跡
 
厳島神社のそれと良く似ています。厳島神社は、仁安3年(1168年)に現在の姿になりました。三佛寺の蔵王権現にも、同年の文書があります。(2006.8)
 


 
● 大正大修理 監督と棟梁
 
大正の大修理の監督は、加護谷裕太郎氏 と判明しました。氏は、奈良県「古社寺修理技師」として、東大寺大仏殿の修復にも参加した方です。
 
 またこの工事に、鳥取から3人の名工が参加したと伝えられています。その一人が岡村吉蔵です。三佛寺、観音堂の前で工事関係者と憩う写真が残されています。(写真左が岡村)
 その他の2人については、分かっていません。心当たりの方がありましたら是非教えて下さい。(2006.10)
   
● 化粧垂木
 
大正4年の改修工事で取り替えられた三佛寺の化粧垂木です。赤い塗装の痕跡があります。
この改修工事で取り外された部材は全て大切に保管され、昭和30年頃 国宝に指定されました。(2006.1)



 

● 大正大修理以前の図面が見つかりました!!
 
1915〜16年(大正4〜5年)にかけて三徳山のお堂を修理した「大正の大修理」以前に作製された、投入堂、地蔵堂、納経堂、文殊堂の建築図面コピーが鳥取市内の民家から見つりました。大正の大修理以前の図面が見つかったのは初めてで、地蔵堂の図面は今回初めて確認されました。また、四つのお堂の図面が揃って見つかるのも初めてです。
 
 図面の原本の所在や、作製した人物や時期は分かりませんが、三徳山を度々訪れた京都大学教授の天沼俊一(建築史)や、その弟子など、京都大学の関係者がこの時期に実測、作製したとものだと推察されます。
 
 ちなみに修理の際の実測図は2005年3月頃に鳥取県智頭町の石谷家住宅から見つかっています。 投入堂、文珠堂、地蔵堂の側面図、背面図、平面図 などのほか、金具の原寸図などの詳細が描かれています。(2005.12.)



 
● 投入堂は赤かった 
 
 投入堂の外観については諸説あるようですが 「修験道の場であり質素なものだった」 というのがこれまでの定説でした。しかし岡倉天心一行の鳥取日記によると、「凡(すべ)て丹(に)塗にして内部の壁板は胡紛(ごふん)塗」とあり、投入堂は“丹塗”つまり朱色の塗装をされていたそうです。胡粉とは貝殻を焼いて作った白色の顔料のことです。
また、現在のような筋交いも昔はなかったという説もあります。(2005.10)
 
※岡倉天心一行鳥取日記…明治36年に内務省の通達により、漆工芸家の六角紫水と共に岡倉天心が山口、島根、鳥取の宝物調査を行った記録。
 


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